垣内 哲(日本語教師センター副会長)
埼玉県川口市にアジア最大級の団地がある。この10年間で中国人住民が急増し、戸惑う日本人は共生を模索するようになった。今回は日本語教育から少し離れ、外国人と暮らすことについて考える、その後編。
男の名は岡﨑広樹という。埼玉県随一の進学校である県立浦和高等学校を卒業して、早稲田大学、三井物産とエリートコースを歩み、松下政経塾にも通った。そんな異色の男が川口芝園団地に住み始めたのは、日本人住民と中国人住民の人数が逆転する前年の2014年だった。彼は団地の自治会で事務局長に就任すると、住民間の冷めた関係がどこから来るのか原因を分析した。そこで気付いたのが、世代間格差である。日本人は団地の老朽化とともに若い世代が離れ、高齢化が進んでいた。一方、「外国人も入居可能」という条件に惹かれてやってきた中国人は30代の子育て世代だった。
住居としての捉え方も違った。高齢者の日本人にとって団地は終の棲家も同然だが、若き中国人は定住志向がなく、3年程度で転居していくケースが目立った。団地の栄枯盛衰を見届け、老後を静かに過ごしたい日本人。団地の過去を知らず、人生のステップとして一時的に利用しているに過ぎない中国人。何の接点もない彼らが集合住宅を空間として共有しているだけでは、仲良く一緒に暮らしていけるわけがない。しかも、これは埼玉県川口市の片隅で起きている小さな問題ではないと、岡﨑は言論サイト「論座」で主張する。「芝園団地と同じように高齢者の日本人と若い外国人という住民構成になる地域が増えるはずです。つまり、芝園団地は、地域の国際化と日本人住民の高齢化が進んだ将来の『日本の縮図』といえる場所なのです」。
問題の解決に当たり、岡﨑はいくつかの分類から始めた。一つ目は「生活習慣の違い」である。ゴミを分別しない、騒音を出す、香辛料の臭いをさせる、食後の夕涼みのために深夜に外出する、などの行為は悪気があってされているわけではなかった。中国人はそれが迷惑行為だと知らなかっただけだ。そこで岡﨑は自治会を動かしていく。ゴミの分別に関して中国語版の注意書きを作成したり、管理サービス事務所に中国語の通訳者を配置したりした。2018年には日本の生活習慣をわかりやすく描いた外国人住民向けの自治会冊子の配付も始めた。以前の団地ではこのような発想はなく、中国人は郷に入っては郷に従いたくとも、その術を持たなかった。岡﨑はこれを「共存」という言葉で説明する。「共存とはお互いが静かに暮らせる関係で、それを成立させるためには住民同士の懸け橋となる第三者が必要だった。その第三者は自治会で、外国人住民にも開かれた自治会を目ざした」。
二つ目は「多様な背景を持つ人々の間には関係が自然構築されない」という点である。人間関係とは同じ場所に住む縁が影響するものだ。団地に40年も住み続ける人々には縁があるが、新たに住み始めた人々にはない。そこに国籍は関係なく、日本人同士も縁がない住民が増えたことで、子どもを隣人に預けたり、多めに作った料理を分け与えたりするという、かつては当たり前だった光景が見られなくなっていた。岡﨑はこれを「共生」という言葉で説明する。「共生とはお互いに協力する関係で、共存を土台にして成立する。自治会を通じて共生まで達成したいが、日本人同士でも難しいことを外国人とするのだから、遠い道のりだ」。自治会は学生団体とともに中国人を中傷する落書きを消したり、日本人と中国人が互いの文化を紹介する会合を開いたりしてきた。情報は中国版SNS「微信」で発信するなど中国人が利用しやすいように配慮した。その功績は外部からも注目されるようになり、2017年度には「多文化共生の好事例」であるとして国際交流基金地球市民賞を受賞した。
岡﨑が入居する36年前、完成したばかりの川口芝園団地に一組の夫婦が入居した。彼らは生まれたばかりの幼子を町内の保育所に預けて共働きをする予定だった。しかし、いざ住み始めると謳われていたはずの保育所は着工すらしておらず、電車で1時間以上もかかる遠方の保育所に通わざるを得なかった。驚くべきことに当時の団地には0~4歳児が約1,500人もいたが、町内の幼稚園は共働き夫婦の子どもを受け入れていなかったため、仕事と子育ての両立に悩む住民は多かった。そこで夫婦は住民と「芝園団地保育・教育を語る会」を結成し、川口市に保育所の設置を掛け合うものの、「国や県の助成がない」などの理由で聞き入れられなかった。しかし、彼らは諦めない。仕事を終えて帰宅したあと毎日のように住民と語り合い、ついには自らの手で保育所を設置することを決断した。何も知らない幼子は会合の最中も妻の背中ですやすやと寝ていたが、夫婦は必死の思いだった。活動に賛同する住民に資金提供を求めると、約170万円が集まった。それを元手にして1980年、隣町の空き家に「みんなの保育園」という共同保育所が開園した。園長に就任したのは、保育士の免許を持っていた妻だった。
初年度は18人の子どもが預けられた。多くは団地に住む共働き夫婦の子どもだった。その中にベトナム人の父と日本人の母を持つ女の子がいた。彼らも団地の住民だった。女の子は発達が遅く、ハイハイができなかった。不安が増す母親、静かに見守る父親。そんな両親を保育士は励まし続けた。すると生後10か月が経ったある日、女の子は父親が床に置いた包装紙を取ろうと這いずった。母親は思わず万歳し、いつも冷静な父親は目に涙を浮べ、保育士は我がことのように喜んだ。そこには国籍も出自も関係ない支え合いがあり、無意識のうちに「共生」が存在した。
保育所の設置に尽力した夫婦はもう一つ、川口芝園団地の発展に寄与していた。自治会の創設である。住民が5,000人以上もいる集合住宅でありながら、共同利益のために全体のルールを作るような動きがなかった。そこで、先の「芝園団地保育・教育を語る会」が他の住民団体に呼び掛けて全体運動に発展させ、世話人会という前身組織を経て、1981年に自治会を立ち上げた。会長こそ他の者に任せたものの、裏には夫婦の奔走があった。ちなみに、今なお続く自治会主催の夏祭りも、そもそもは「みんなの保育園」のバザー(下写真・1980年代前半)を団地の公園で行うという夫婦の発想から転じたものだ。
川口芝園団地の歴史は縁もゆかりもない人々がビル群に入居したところから始まっている。日本人が多かった当初、彼らは「共存」の域を出なかった。そこに保育所問題が浮上し、一部の住民が「共生」を始めた。その流れのまま自治会も誕生した。ところが、時を経て日本人が去り、中国人が住み始めると、日本人同士にも日本人と中国人の間にも深い溝ができた。この時代に自治会を運営する岡﨑は言う。「高齢者の日本人と若者の外国人はつながるきっかけさえない。そう考えていくと、そもそも『分断』という言葉で表現するのが正しいのか。それとも、例えば、『住み分け』という言葉を使うのが良いのか。そんな状況になっている」。
根本的な解決にはまだ至らない。日本人だろうと中国人だろうと、「共生」に関心を示さない者がいることは確かだ。一方で中国人でありながら迷惑行為を一切せず、恥ずかしくさえ感じている者がいることも事実だ。簡単に言い表せないモザイク模様だけに、せっかくの施策が空振りに終わり、振り出しに戻ることもある。そんな試行錯誤の真っ只中だからこそ、思い出されるのは、あの保育所問題だ。黎明期に一組の夫婦が抱いた思いと、現在の岡﨑が描く夢にさほどの違いはなく、それは単に自治会のバトンを受け継ぐに留まらない時代を超えた課題のようにも映る。結局、同じ問題意識を持つ仲間を増やしながら、ひたすらに前へと進むことでしか普遍的な「共生」は実現されないのではないか。かつて妻の背中ですやすやと寝ていたあの幼子は大人となり、このコラムを書くにあたって、ふとそんなことを思ったのだった。
(了)
参 考
岡﨑広樹:共存から共生へ、試行錯誤の日々 外国人集住地域「芝園団地」発